元不登校、現役大学生の雑記

自分の経験則を誰かの生活に役立てられるのではないかと思い、始めさせていただきました。過去の自分のように暗くて辛い生活で悩んでおられる方々の、一助となれば幸いです。リアルをお伝えできるよう心がけています。

弁論術と相対主義

 ソフィストたちは,ギリシャ各地を遍歴し,講演や教授によって財と 名声を獲得した.彼らの立場と主張は多岐にわたるが,代表的なソフ ィストのプロータゴラースは,自ら徳(卓越性)の教師を名乗り,弁 論術の教授によってアテーナイの若者を引きつけた.弁論術は議会で の卓越のための武器であるから, 「徳の教師」という自己認識は一面で 正しい.同時に,彼の立場は,真理よりも説得相手と立場に依存する 弁論術の本質と同様に,相対的なものに依拠する.「人間は万物の尺度 である.あるものについてはそれがあることの,ないものについてそ れがないことの」という彼の有名な言葉がある.感覚は各人に時折々に異なって現れる。行為の基準である価値も、各国各人を離れたものではない.すべては視点に左右され,絶対の基準はない.これは徳の 教師という彼の立場も危険に晒す.本当に基準がないのなら,彼我の 優劣も判定不能であり,自己の優越も示せなくなるだろう.だが彼ら は,社会的成功に必要な技術として弁論術を伝授し(外的に伝達す る:人間の教育に関する誤った理解として今日もそう見なされること が多い),それ以上コミットしない.これは理性が道具的で,行為や 目的の選択が理性と異なるもの(近現代の経験主義倫理学における 「感情」と同じ)によるとする見方である.そして,この弁論術で は,自己の欲求実現のため,民衆(無知な大衆)の説得が不可欠であ る以上,彼らの承認こそが価値の源泉となる.民主主義で支配者とな るのに大切なのは,劣った(?)大衆の価値に最もうまくおもねった者 である.自己の力に対する欲求は,しばしば無反省で私益に引かれが ちな民衆の価値観と欲望をそのまま肯定・承認し,それに仕えること が必要である.【今日の民主主義とマスコミも同じである.】  だが価値の相対性の自覚は,否定的な事態ではない.各国に相応し い価値観に則して語るのは賢い行動であり,博識に裏打ちされた弁論 は有効である.さらに,自覚された相対性を越えた,より普遍的な価 値の追求もおのずと現れる.プロタゴラス自身も,ゼウス(伝統的な 最高神で正義の神)がすべての人間に正義の感覚を配分したという神 話の形で正義の普遍性を語っている(ただし,人間の弱さを元にする 点で,これも近世の社会契約説の発想に近い).  しかし,弁論術はその本質上,善悪正邪いずれの側からも論じら れ,自己利益の防衛と拡張に専心する利己心にのみ仕えるとするな ら,悪魔の道具と化すことにもなる.アリストパネスの喜劇『雲』で は,正論と邪論との対決が,新旧の価値観の滑稽なすれ違いとして描 かれるが,「弱い(劣った)議論を強い(優れた)ものにする」という 弱論強弁こそ,アテナイ民衆の願望だった.民会にはデマゴーグ(大衆 扇動家)が跳梁し,煽動と利益誘導が幅を効かせ,あるべき国と生に対 する建設的視点は抜け落ちる.